感情の音色を表す
エモーショナルコードと物語
軽やかな語り口の
洗練された短編集
誰かの人生のひと時を描いた物語を読むと、不思議なことに、かつて自分に訪れていた何でもないような日々を、まるで一篇の小説のように思い出すことがあります。長崎に生まれ、イギリスに育った小説家、カズオ・イシグロの作品に登場するのはいつも、過ぎ去った日々を思い、不確かな記憶を確かな未来へつなぎとめようとする人々。
世界のいくつかの街で起きた出来事をユーモアたっぷりに描いた『夜想曲集』では、音楽家や音楽を愛する人々が、それぞれの「夕暮れ」にとまどいながらも、かつて愛した音楽や思い出を手がかりに、明日へと踏み出そうとしています。誰かに愛されることと、世界に愛されることは、ときどき行き違ってしまう。けれども感情の音色がはっきりと響くのは、そんな夕暮れ時なのかもしれません。作品から聴こえてくるサックスやギター、チェロの音色や歌声に耳を傾けるうちに、あなたにとっての夜想曲が思い出され、大切な誰かと分かち合いたくなるはずです。切なくもユーモラスな内容は、人生が移ろい行くことを肯定してくれるようです。
『夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』
著: カズオ・イシグロ
訳: 土屋 政雄
ハヤカワ文庫